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《激しい叫び声と涙をもって祈ろう》
私が韓国のキリスト教に接したのは、アメリカの留学から帰って、福岡で開拓伝道を始めた一九七〇年の頃です。当時、私は開拓の中で現実
の厳しさと自分の無力さの中で呻き祈り続けていました。
その様な中で一九七四年、韓国より真に私達の教会を助ける天使として、李啓燮先生が神から遣されて来会されました。私が開拓を始めて
五年程の月日が経っていましたが私の小さな祈りの力では、日本の教会の前に立ちはだかる霊的な壁を破れず呻くのみでした。その様な中で、
李先生は三日間の集会を通しその分厚い霊の壁を見事に破って下さり、素晴らしい聖霊の注ぎを与えて下さいました。その時先生が教えて
下さった祈りこそが、文字通り命をかけて叫び求める祈りでした。
余りもの激しさに、内心躊躇する程でしたが、そこで起こった素晴しい霊的な現実を見ては激しい叫びと涙の伴う祈りの必要性を実感しました。
日本の静かな教会の中で、この様な祈りが異端視されるものである事を充分に知りつつ、日本の霊界の壁を破る為にはこの様な激しい祈りが
必要と言い聞かせつつ、今日迄この祈りを続けて来ました。
主イエス様はヘブライ5:7によると「肉においては激しい叫びと涙をもって、祈りと願いとを捧げられた」と記されています。考えてみますと、
イエス様は神の子であり父なる神様の御心を全部御存知の筈ですから、涙を流して祈る必要があったのだろうかと思います。有名なOハレスビーは
「祈りの世界」という本で「祈りは神を相手として戦うものではない」と記しています。しかし、もしそうであれば何故にイエスはゲッセマネで父
なる神と血の汗を流す程に激しく格闘し給うたのか説明がつきません。韓国や中国の教会に行くと、兄姉達が涙を流しつつ激しい叫び声をあげて祈って
いるのをよく目にします。
確かに高橋三郎師がロマ書8:26の注解の中で述べている様に、祈りは突き詰めていえば「神と神の霊との対話であり、人間の声は最後は消え去り
そこには唯『僕聴く、主よ語り給え』となる」という事は理解出来ます。しかし、その過程において聖霊の執り成しの中で激しく叫び祈るという
大事な人間側の営みが過小評価されているのではないかという懸念を拭い去る事が出来ません。日本のキリスト教がインテリの宗教であり、
この肉を持った人間の営みを把握仕切れていない様に思えてなりません。
キリスト御自身でさえも、あの荒野の40日間飲食を断って激しい祈りをされ、又分からない弟子達を目の前にし高い山に登り御自分の十字架の道を
取る為、どれ位激しく祈られた事でしょう。言う迄もなくゲッセマネでイエスは父なる神との霊的格闘に身を挺していました。真にフォーサイスが
言う様に「我々の祈りから、格闘的祈りが消えて久しい」のです。この日本の恐ろしい終末の霊的な現実、私達の愛する者が罪と呪いの中に滅び
行く現実を目の前にしつつ、叫ぶ事もなく熱い涙をもって祈ろうともしない自分の姿こそが恐しくなるのです。「クリスチャンの祈りは、実際は
彼の中にあって祈る聖霊の祈りなのであり、神の国の連帯的責任を負う祈りである。それはゲッセマネにおける格闘、父との苦闘に身を挺した
キリストの祈りの継承である。祈りは神が御自身に対して訴え神が御自分と戦う行為であり、これが真の贖罪である」(フォーサイス)何と深い
祈りの消息を教えている言葉でしょう。私達は今こそ主に倣い激しい叫び声と涙をもって祈らなければなりません。
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